きゅうこくせいねんれんめい
(救青連)
1946/02/22~???(解散)

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★概要
1946年に織田正信を中心として香川県で結成された保守政党。

織田は学生時代から東亜連盟の影響を受けて右翼的愛国思想を持っており、戦後の日本を救うには地方の青年の力が必要だとして大学を卒業すると郷里の香川に戻り、1946年に「救国青年連盟」を結成した。

天皇制の護持・道義文化国家の建設・不公正なき社会の実現を掲げて農村の青年を中心に支持を広げ、最盛期には会員数が2700人ほどに達した。
東亜連盟の幹部だった田中久の支援を受けていたとされることから右翼政党ともいわれるが、農村を基盤として協同組合主義に近い考えを持っており、再軍備に反対するなど中道的な性格を併せ持っていた。
1947総選挙では織田が党公認で出馬してトップ当選。25歳(*注)での全国最年少当選者で、選挙応援には緒方竹虎も来ていたという。香川県議選でも複数の候補者を擁立して前田敬二が当選している

当選後も織田は国政政党には属さずに院内会派の第一議員倶楽部に所属して活動したが、農村系議員の結集が模索されると、1947秋に国協党や農民党の議員と共に新政治協議会の結成に参加した。しかし、農民勢力が結集した農民新党には参加せずに、党公認で出馬した1949総選挙で落選。1952総選挙では国政政党の協同党公認から出馬しているが再び落選している。
落選後、織田は政治の自由と民族の独立回復が急務との考えに至り、右翼団体ともいわれる民族新生運動の結成を主導したものの後に離脱している。同時期には浅原健三の西日本建設国民連盟の結成にも関わっている。
しかし、全国的な右翼運動に関わる一方で県内での支持は低下しており、一説には粗暴な行動を取る党員や支持者が多かったことで県民に見限られたともいう。

織田が1955秋に交通事故で急死したことで実質的に活動を停止したと思われるが不詳。
*注 複数の資料で「26歳」となっているが、これは当時まだ標準的だった数え年による年齢で、現在の標準である満年齢では、1921/12/01生まれなので1947総選挙時点で「25歳」となる。
★役員 ------------------------------------------------ 最高責任者(主幹): 織田 正信 香川県責任者:    前田 敬二 ------------------------------------------------
★選挙 ---------------------------------------------------------------------- 1947総選挙: 1/1: 織田正信@香川01 1949総選挙: 0/1: 織田正信@香川01 ---------------------------------------------------------------------- *織田は1952総選挙では協同党から出馬している(落選)